昭和54年05月11日 朝の御理解
御理解 第79節
「商売をするなら、買い場、売り場というて、もとをしこむ所と売り先とを大事にせよ。人が口銭を十銭かけるものなら八銭かけよ。目先は二銭損のようでも、安うすれば数が売れるから、やはりその方が得じゃ。体はちびるものでないから働くがよい。」
なかなか難しい事です。商売人にソロバンを持つなと言う事は、本当に難しい事ですけれども、これはもう正しくあのソロバンをもつなと、言う事なんですね。いわゆる目先目先の事にとらわれるなと。これはだからお商売の事だけではない。目先のおかげと言うものは、目先のおかげを頂いていくと、いかにも言うなら願いが成就した様にありますけれどもこれではね、人間氏子の願いは成就しても、神の願いが成就と言う事にならんからおかげにならん。
私共は目先のことは実際は分らん、分からんけれども矢張り目先の事を願う、目先の事を願ってならおかげを頂いたからと言うて、人間の本当の幸福と言う事ではない。何というてもやはり心が助からなければ、いよいよ心が豊かに大きうならなければと、そこに焦点を置いて信心をさせて頂いて参りますから、おかげも豊かに大きくなって来るんです。目先はいかにも損のようだ。けれども。数が売れるからと言う事は、お客さんが喜ばれるからと言う事になるのです。
あちらは品物が良いまたは値段が安い。そのお客さんが喜ばれるから、そこの言うなら店が繁盛するように、そこで私共が信心の焦点と言うものを目先の事から。昨日の泉尾の先生のお言葉じゃないけれども、先々安心がいく様なおかげ。と言うておられる。そのために楽の先取りはせずに、言うなら修行の先取りをするような、苦労の先取りをする様な気持ちにならなければならないと説かれる訳ですね。やはり結局はどう言う事になるかと言うとお商売をするなら結局ね。
自分の利益と言う事よりも損をせろと言う事ではないですけれども、とにかくお客さんが喜んで貰う様な、もうお客さんに喜んでもらえれば良い。金光大神は人が助かる事さえ出来れば良いとこう仰る。だから商売人は、もうお客さんが喜んでさえ下さればよい。そこには例えば値段が安いとか品物が良いと言うだけではなくて、やはりそれには心が伴わなければならない。そこでならそれを信心で頂くと、お客さんが喜んで下さると言う事はどういう事かと言う事になる。
皆さんがどうぞ今日も神様に喜んで頂く様な、一日であります様にと言うでしょう。またそう言う願いを持たれるでしょう。結局はそこになるのです。神様が喜んで頂くような商売が出来たら、もう絶対神様お客さまが喜んで下さる。これは先々例えばそんな大サービスをするなら、それこそ出血だと言う様な場合であってもですね、それが繁盛の基にならないはずがない。神様が喜んで下さると言う所に結局は落ち着くわけです。お客さんが喜んで下さる。ここでは売り場買い場と言っておられます。
お客さんだけではない元を仕込むところも、大事にしなければならんと言う事。神様に喜んで頂く信心。自分達の生活の言うならば現場で、神様に喜んで頂く生き方、お客さんに喜んで頂く生き方。仕入れ先の方でもやはり元を仕込むところ。先ずは信心の元を仕込むところはお広前だと思う。だからお広前を大切に思う。お広前を中心にそして自分の生活の現場でも又それを大切にする。
お客さんを大切にする同時に仕入れ先を大切にすると言う事を、これは私共の信心生活の上においたら、商売と言う事に限らない。目先目先の事を言わずに、お客さんが喜んで下さりさえすれば良いという。仕入れ先を大切にする。元を仕込む所を大切にする。自分の頂いておる言うならば教会の発展繁盛を願う。お客さんの喜んで下さるもう他所よりも言うならば、いくらかでも安く少しでも良い品物をと心掛ける。
お客さんが喜んでさえ下されば、神様が喜んでさえ下されば、言うなら自分の事は一つもいってないから、自分が立ち行かん様になるか、と言うとそこに言うならば立ち行きのおかげ。いよいよ末末のおかげ安心のおかげまでも、預けれる信心の実証が出来てくる。今申しました事は信心の二銭、目先が損の様であってもソロバンを置いて安うすればと、こう仰る。これは信心の実験です。言うならば合楽理念の実験です。合楽理念の実験、そげんするとばからしかごたる。
けれどもいっちょんばからしい事はない。もうそれこそ身体はちびるものではないからと、一生懸命働いたが良いと言う意味の事を仰ってます様に、いよいよ修行の有難さ、いよいよ修行が身についていく喜びを頂きながらの日常生活ね。そうしてどう言う事かと言うとまぁ商売人で言うとね、それこそこちらが儲けようと思わんでも、周囲の方から儲からずにおれない、言うならば周囲の方から儲からせて下さると言う働きが起って来る。これは大の字が着く様なその大商店となる様な、繁盛する店は必ずそうです。
自分の計画どうりにしても、こうしてこうすりゃいくら儲かると言うのでは、いうならばたかが知れておる。言うならば人間の一握りである。人が儲けさせてくれると言うのはそれこそ神様の一握りである。どれだけあるやら分からん、人から人へと伝わって伝わって行っただけの人達が儲けさせてくれる。もうおかげの理と同じである一つも変わらない。けどなかなか難しい。
私共信心させて頂いておったけれども、お商売を仲仲出来なかった。人が十銭儲かるところなら十一銭も十二銭も、儲かるのが商売上手な様な思い方をしておった。これじやいかにも目先が人よりも余計儲かったごとあって、決してそれが儲かりにならなかった事はこれは、もう私が体験して実証しておる。今のような心の状態で商売したら、随分繁盛するだろうと思う。なかなかそれでも出来なかった。
私は今の合楽に御神縁を頂いておる人達の場合はね、それが私共よりもそれを成し良い、実行しよい、只お話しだけではない。それを実証しながらね、実験し実証しながらここで皆さんに聞いて頂くのですから、すぐ目の前に一つの手本があるからね、そこがやりよい度胸が出来る。私は思うですね。本当に商売人がお客さんが喜んで下さる事ばっかりを考える様な商売だったら絶対繁盛するです。
これを売ってこうしてこうすりゃ、いくら儲かると言う事ではなくてね、私はここら辺の所をすっきりと、一つ信心のそれを修行と思うて実行されたらいいです。必ず良い実証が生まれて来るですね。それには先ず私共が目先の事を言うてはならん。お客さんが喜んで下さる、そう言う言うなら生き方を商売の芯にさせてもらう。商売だけの事ではない。お百姓さんでもそうですね。それこそ士農工商、総てがそうですね。自他共にと言うけれども、先ず自分よりも人が喜んで下さる事のために奉仕する。
そこに自分を喜ばせずにはおかんと言う、働きが起って来る体験をこそ、本当のおかげの世界と、言うのじゃないでしょうか。どうぞどうぞと言うてお願いをする。そのおかげは目先のものですから、もうそれはそれっきりのものです、神様が喜んでさえ下されば、お客さんが喜んでさえ下さればと言う事は、取りも直さず神様が喜んで下さる事。今日も一日神様が喜んで頂ける様な一日でありますように、言う所にはです先ずどういう生き方にならなきゃならんか、先ず目先の事を言うてはならんと言う事でございます。
人が喜びさえすればと言うことは、そのまま神様が喜んで下さる事に繋がるのです。そこにはソロバンのいうなら計算通りではない。神の一握りはどれだけあるやら分らんと言うおかげの世界に住んでいく事が出来る。信心とはそういう世界に住み替えていく事だと私は思うです。先ず今日皆さん目先の事をね置いて、そして人が自分以外の人が喜んで下さるような生き方そういうあり方。そういう奉仕の一日でありたいとねがう。只神様が喜んで下さると、いうだけではあまりにも漠然としておる。
それにはね先ず人が喜んで下さる、お客さんが喜んで下さればよいと言う様な思いで、一日の生活がそこに芯がおかれてくる時にです、初めて目先の事を置いての生活と言う事になるのじゃないでしょうか。その向こうに本当の信心でいう、おかげの世界、真の信心で言うおかげの世界がある。そこに住まわせて頂くのが、言うならば信心のある者とない者の違いだと言う風に思うです。
どうぞ。